被用者年金一元化をめぐって
昨年は、公的年金制度の歴史上、大きな節目になる年であった。一つは、マクロ経済スライドの施行により、年金制度の持続可能性の確保に向けた平成16年改正のフレームが動きだしたこと。もう一つは、昨年10月の被用者年金一元化法の施行により、昭和59年の閣議決定による公的年金制度の一元化が実現したことである。
被用者年金一元化については、これが公的年金制度改革の「最終的な到達点」なのか、それとも長い道程の「一里塚」にすぎないのか、いろいろな見方があろう。たとえば、民主党が提案しているような、税財源による最低保障年金とセットにした単一の所得比例年金への一元化のような姿を最終到達点だと考える人には、一里塚にすぎないのかも知れない。が、ここに至る長い過程を見聞してきた私には、相当に完成度の高い到達点であるように思える。
この間の経緯を振り返りつつ、雑感を記しておきたい。
一気呵成の被用者年金一元化法案
このような経過からすると、審議されないまま国会解散により廃案になったとはいえ、平成19年の被用者年金一元化法の提案は、筆者には思いのほか早いものであった。
【抜本改革論議の高まり】
平成16年改正では、民主党が対案として所得比例年金への一元化と税財源による最低保障年金の創設を提出したほか、政治家の年金保険料未納問題や年金福祉施設問題がクローズアップされるなど、年金問題が国会の最重要問題となった。その結果、自民党、民主党、公明党の三党合意を踏まえて、衆議院修正により国民年金法附則第3条に検討規定がおかれ、その第2項において、「公的年金制度についての見直しを行うに当たっては、公的年金制度の一元化を展望し、体系の在り方について検討を行うものとする。」と規定した。
平成16年改正では、マクロ経済スライドの導入等、年金制度の持続可能性を高める改正が実現した。しかし、その直後の参議院選挙では、年金問題が争点となり、民主党が参議院第一党に躍進し、その後も年金改革論議が続いた。
【政治主導の決定】
郵政選挙といわれた平成17年の9月の衆議院選挙では、自民党の公約に被用者年金一元化が謳われた。選挙後、小泉総理から、被用者年金一元化について、関係各省において、処理方針をできるだけ早く取りまとめるよう指示があり、関係省庁連絡会議が設置され、検討が始まった。その後、政府・与党協議会における検討を経て、平成18年4月には「被用者年金制度の一元化に関する基本方針」が閣議決定された。
この基本方針は、このたび施行された被用者年金一元化法の骨格となるものであり、小泉総理の指示からわずか半年で、難易度の極めて高い改正の骨格をまとめ上げた。総理のリーダシップとこの問題を担当された長勢甚遠官房副長官のご尽力によるものだという(当時の年金局長・渡邊芳樹さん証言。「年金制度、大きな到達点と今日的課題」、『年金実務』、平成27年9月28日号)。
【廃案から成立まで】
この基本方針に従って、1年後の平成19年4月に被用者年金一元化法案が国会提出された。しかし、国会では一度も審議されることがないまま、平成21年の衆議院解散により廃案になった。
廃案になったのは、対案を持つ民主党が審議に応じなかったからだと一般に考えられていた。筆者もそうである。しかし渡邊芳樹さんの証言によれば、そうではなかったという。実際には、平成19年、20年の国会では、「消えた5000万件」などの年金記録問題が紛糾するなかで法案を審議できる状況になかったこと、21年の国会では、21年度までに完全に引上げるとした16年改正による基礎年金の国庫負担割合2分の1法案の実現に全力をあげることを優先したからだという(渡邊芳樹さん証言。前掲)
平成21年の総選挙では、民主党が圧勝し、政権が交代した。マニフェストでは、所得比例年金への一元化と最低保障年金の創設、国税庁と社会保険庁を統合した歳入庁の創設を謳ったが、実現可能性のある成案を得ることができなかった。結局、廃案になった自公政権下の法案を施行期日をずらしただけの修正で再提案することになった。