平成前半期の年金を振り返る
平成時代を終えるに当たって、本稿では、平成時代の年金改正のうち、現行制度の基本的枠組みを構築した平成16(2004)年改正前の時期に限定して、3つの法改正に係る国会公聴会での意見陳述を中心に、記してみたい。
公聴会とか参考人質疑というのは、重要法案について、専門家や利害関係者の意見を聞き、審議の参考に資するものである。ただ、実際には、採決を前提に与党主導で開催されることが多く、審議を尽くしたという形を整えるための形式的なものだという批判がなくはない。
平成元(1989)年改正
改正の概要
・完全自動物価スライド制の導入(従来は物価が5%を超えて上昇した場合に適用)
・学生の国民年金制度への強制加入
・国民年金基金制度の創設(地域型基金の創設、職域型基金の設立要件の緩和)
・被用者年金制度間の費用負担調整事業の創設(平成9(1997)年度の3共済の厚生年金への統合により廃止)
平成元(1989)年は、激動の年であった。国際的には、ベルリンの壁の撤去、東欧の社会主義政権崩壊などに象徴される東西冷戦体制の終結。国内的には、リクルート事件等による政治不信の高まりのなかで竹下首相が辞任、後継の宇野首相も参議院選敗北、女性問題によりわずか2か月で辞任、海部内閣の誕生という混乱。その一方で経済は好景気で、消費税3%を導入したものの、東証平均株価は年末に3万9,000円という史上最高値を記録するなど、バブルの絶頂であった。
支給開始年齢引き上げの削除
そういうなかで、この年の年金改正は、極めてマイナーなものにとどまった。法案の柱ともいうべき、60歳から65歳への厚生年金の支給開始年齢引き上げが国会修正で削除されたからである。法案では、支給開始年齢引き上げの施行日は別に法律で定めることとされていたが、これが削除され、次の財政再計算の際に60歳台前半の老齢厚生年金の見直しを行う旨の規定が設けられた。
支給開始年齢の引き上げは、昭和55(1980)年改正でも検討されたが、労使の反発にとどまらず、与党からも合意が得られず、見送りになったという経緯があった。代わって、昭和60(1985)年改正では、加入期間の伸長に合わせた給付水準の引き下げにより、財政の安定を図った。しかし、それもつかの間のことであった。翌年の昭和61(1986)年12月に発表された将来人口推計では、ピーク時の高齢化率が5年前の前回推計よりも約1割程度上昇するという見通しになった。支給開始年齢引き上げの提案は、これに対する直接的な対応として提案されたものであったが、当然のことながら、労使から激しい反対があった。
ここで、年金の財政見通しの前提になる人口の将来推計について述べておきたい。これに決定的な影響を与える合計特殊出生率は、第1次ベビーブーム以降急速に低下し、昭和31(1956)年に2.22となった後、しばらくは人口が静止するために必要な水準(2.1程度)で推移してきたが、昭和50(1975)年に1.91と2.00を下回ると、平成5(1993)年には1.46と1.50を割り、その後も低下傾向が続いていた。しかし、当時の出生率の低下については、主に晩婚化・非婚化による一時的な遅れであって、それが止まれば回復するという仮定をおいていた。そのため、人口推計の都度、年金の財政見通しが悪化し、財政対策を迫られるという悪循環を繰り返していた。晩婚化・非婚化に加えて、夫婦出生力の低下(結婚しても子どもを持たないか出産を抑制する夫婦の増加)を示唆する新たな兆候を踏まえた、実績重視の推計に切り替えたのは平成14(2002)年1月推計からである。
高齢者雇用の促進に向けて:保険料メリット制の提案
この改正法案について、衆議院社会労働委員会での公聴会(平成元(1989)年11月27日)において、野党推薦を受けて、法案に批判的な立場から意見陳述をしたことがあった。公聴会では、雇用との連動性が確保される見通しがない中では、65歳退職への誘導策を講ずることが最善の選択肢ではないかと考えて、高齢者雇用に対する企業の貢献度に応じた保険料のメリット制の導入を提案した。
例えば、65歳まで十分な賃金を支給し、在職老齢年金の受給者が少ない企業については、特別支給の老齢厚生年金に係る保険料負担を軽減し、在職老齢年金の受給者が多い企業については増額する。当時にあっては、高齢者の就業先は圧倒的に中小企業に偏っていたから、この制度を導入すれば企業間の厚生年金の費用負担の公平化にも寄与する。今日的には、インセンティブ改革ということになるのだろう。この提案は、専門家のなかでは一定の評価をいただき、連合(日本労働組合総連合会)の要求にも掲げられた。ただ、アイデア段階にとどまり、具体的な制度設計となると難しいとは思っていた。
学生強制適用の代替案:障害年金の保障に特化した特別保険料
改正案については、20歳以上の学生の強制適用についても賛否両論があった。学生は国民年金の発足当初から任意加入のため、学生時代に発生した障害による無年金が訴訟になるなど問題になっていた。20歳前障害であれば障害基礎年金が全額支給されるのと大きな違いであった。その意味では、改正案は皆年金を達成する画期的な提案であった。しかし、一般の被保険者と同様に、収入のない学生にも低所得世帯でない限り定額の保険料負担がかかることから、批判が少なくなかった。大学の教室では、保険料を納めなくてよい第3号被保険者である母親との違いに首を傾げる学生がいたものである。しかも健康保険では、母親も学生も被扶養者として同じ扱いになっているとなると、ますます説明に困ったものだった。
これに対して私の提案は、障害年金の保障が主眼であることからすれば、障害年金のみ切り離し、それに相当する保険料分だけの特別保険料(当時で月額1,000円程度と見込まれた)を徴収してはどうかというものであった。その他、切実な問題になりつつあった65歳以降に発生した要介護等の障害に対しても、障害に着目した年金制度による対応を求めた。
当時、専門家の間では、狭い年金制度の枠組み内での給付と負担の均衡に過度にこだわる年金行政について、「年金モンロー主義」という批判があった。私も批判した者の一人で、高齢者の雇用や介護、さらには少子化対策など、周辺の政策課題にも年金制度として関われるものであれば柔軟に対応してほしい。また、そのことが年金制度に対する信頼を高め、負担増に対する理解を深めるはずだ、と考えていた。