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連載−飽くなき者たち−
飽くなき者たち−円熟の輝きを放つ名優の軌跡−
大谷直子が剥がれるとき
掲載:2016年6月15日
大谷直子

 『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)にこんなシーンがある。藤田敏八が突っ伏した大谷直子を抱き起こすと、まるで皮がむけるかのように彼女の着物がはだけて白い裸身が露わになる。直前の場面に「あたしは狐かもしれません」という台詞があるから、これは皮がむけるというより、化けの皮が剥がれたと言うべきなのだろう。
 人は常に何かをまとっている。普段身につけている衣服や常識や体面が剥がれることは、官能であり、衝撃であり、痛快でもある。大谷がそれを体現してみせる時、そこには強い香りが立つ。この『ツィゴイネル-』での、一人二役が三役にも四役にも感じられるような演技や、『ダブルベッド』(1983年)での、モラルをかなぐり捨てて性愛にのめり込んでいく主婦役には、豹変する女のむせかえるような香気が立ちこめていた。

 50歳を越える頃になると、こういった芝居にもより陰影が増していく。長年家庭に尽くしてきた主婦の建前が一夜にしてすべて剥がれ落ちる『蛇イチゴ』(2003年)での演技はとりわけ印象深い。
 義父の葬儀が終わった夜、台所のテーブルで冷や酒を呷りながら、生真面目な娘(つみきみほ)相手に延々と言いたいことを言い続ける場面がいい。リストラされたことをひた隠しにして借金を重ねていた夫(平泉成)をなじり、素行の悪い息子(宮迫博之)を勘当したのは彼の近親憎悪だったのだと言い募る。しまいには「こんな家、バカみたい!」と吐き捨てる。身も蓋もないが、それゆえの爽快感がある。
 本音を晒した後、娘に神妙な顔で「どうしてそんなに生き生きしてるの?」と訊かれてはっとなる表情が秀逸だ。自分の足下に剥がれ落ちた"建前の皮"の量に戸惑い、これまでの自分の人生は何だったのかと考え込む。西川美和監督のキレのある演出と、大谷の辛辣をユーモアに包んだ芝居が溶け合い、記憶に残る名シーンとなっている。

 還暦を越えて出演した近作『希望の国』(2012年)は、原発事故の発生によって退避命令が出された架空の町で、自分の生まれ育った家に残り続ける道を選んだ夫婦(夏八木勲と大谷)の物語である。
 本作での大谷は、認知症らしき症状によって時折大人の建前が剥がれ落ちる存在として登場する。老女でありながら、時には童女になって本音をぶちまけてみせる芝居は、さすがという他ない。彼女が帰宅願望から繰り返し口にする「うちに帰ろうよ」という台詞も、単なる皮肉だけでなく、哀愁やいじらしさまで滲ませて、ベテランならではの厚みを感じさせる。
 真冬にもかかわらず浴衣で盆踊りに出かけてしまった大谷を、夏八木がやっとの思いで見つけ出したあと、彼女にせがまれて雪の中で炭坑節を踊るシーンが、儚くも美しい。2人の老優が雪中で盆踊りを踊る。しかもロングショットの長回しである。それだけで胸に迫るものがある。
 異才・園子温監督による、作家性・メッセージ性ともに強い、過激で過剰で重苦しい作品だが、陰惨になり過ぎないのは、大谷のどこか乾いた明るさがあるからだ。"剥がれる芝居"で独自の存在感は示しつつ、作品全体のバランスを取る役割もしっかりと果たす。こういう仕事は若い者には務まらない。長い間、長い距離を歩み続けた者にしかできない表現というものもあるのだ。
 
 

次回は「三田佳子」を予定しています。

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